河上徹太関連エントリー

渡部亮次郎のメイル・マガジン 頂門の一針 第771号 中

... 長州人でありながら、何ゆえ松陰先生が偉いの か、教師に訊いてもさっぱりで、当時「松陰研究の第一人者」河上徹太 郎氏の岩国の、家を訪ねて訊きしかど、2~3時間では埒あかず。 されど永年の積み重ね、おぼろげなるも見え来たる ...

渡部亮次郎のメイル・マガジン 頂門の一針 第771号 中

河上徹太とは?

河上徹太郎(かわかみ てつたろう 1902年1月8日 - 1980年9月22日)は日本の文芸評論家、音楽評論家。芸術院会員。小林秀雄 (批評家) 小林秀雄、中原中也、大岡昇平、青山二郎、諸井三郎、吉田健一 (英文学者) 吉田健一、白洲次郎たちとの親交も有名。
日本郵船の技師を父として長崎市に生まれる。本籍地は山口県岩国市で、河上肇は親類にあたる。1914年、兵庫県立神戸高等学校 旧制兵庫県立神戸第一中学校を経て、1916年、東京都立日比谷高等学校 旧制東京府立第一中学校に編入学、同級に富永太郎、1年下に小林秀雄がいた。1919年、旧制第一高等学校文科甲類(文系の英語クラス)に入学するも1920年に休学し、ピアノを習う。1923年、東京帝国大学経済学部に入学。1924年、『月刊楽譜』誌に音楽評論「音楽に於ける作品美と演奏美」を発表。1926年、東京帝国大学経済学部卒業後、3ヶ月のみ東京帝国大学文学部美学科に在籍。ヴァレリーやジードを翻訳紹介し、フランス象徴主義の影響下に評論活動を展開、近代批評の先駆者となる。シェストフの紹介者としても知られた。戦時中は国策団体である日本文学報国会に関与。このため、戦後(1946年)になってから、新日本文学会の小田切秀雄によって、小林秀雄や亀井勝一郎と共に「戦犯文学者」と呼ばれ糾弾される。

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